金星なんかというのは進化した世界ですから、相手をやっつけようとは思わない。業の感情がないのです。
ところが地球人間の世界は業がいっぱいなのです。「あのヤロウ、人の顔を汚しやがった」とか、「あんなに親切にしてやったのに、仇でかえした、とんでもない奴だ」とかよくあるのですよ。
「私あの人のためにしてやったのに、あの人は私の悪口を言っているのです」といって泣くんですよ。泣いたって始まらないです。
いいことをして、且つそれでも仇で返されるのは、こちらはいいことをして徳を積んでいる上に、それだけまた業を消してくれているのですよ。いいことをして、それを仇で返してくることは、よけいに徳を積むことになるのです。
いいことをしてお返しが来ちゃったら帳消しですよ。これを、「してやった」と思う、「あの人のためにしてやった」と思うのですが、してやったのではないのですよ。させてもらったのです。
何故させてもらったかというと、してやったことがそのまま消えてゆく姿なのです。光が出ていったのです。その上、且つ向こうが悪口を言ってくれるのは、業を背負ってくれるのです。ありがたいことに、ドンドン業をひろってくれるのです。
悪口を言われるたびに本心が出てくるのですよ。言われるたびに業が減ってゆくのです。そういう考え方をしなければだめです。自分は向こうのためにしてやって、お返しが悪いものであったらば、それだけ自分の業が減ったと思いなさい。目に見えるものでお返しされるよりも、目に見えぬお返しのほうがよほどよいのです。
これを天の蔵に宝を積むというのです。
目に見える宝をもらうよりも、目に見えぬ宝のほうがよほどいいんです。目に見えぬ宝はすごいのですよ。やがてこれは返って来ます。
だから自分でもって、「これだけしてやった」などと、ケチな考えを起こさないで、もうできる限りのことをしてやりなさい。返って来ることなど考えなさるな。
いいことをした時には、人のためにした時には、そのまま自分の業が消えています。自分の本心が光り輝いています。これをつづけてゆけば、本心が光り輝いてきます。大きくなります。
いいことをすればするほど、その人の霊体は光を増してくるのです。大きく広がってきます。光がよけいに出ているからです。
人間というのは霊でしょ。霊体から出ている霊の光というのは、決まった形ではないのですよ。霊体はいいことをすればするほど大きくなる。なぜ大きくなるかというと、神界から光がよけいに入るからです。(中略)
いいことをするということは、その人のためにすることではなく、自分のためにするのです。あなたのために「してやった、してやった」と思うことは、それだけマイナスと思いなさい。
「してやった、してやった」と言うと、ありがたみが薄くなっちゃう。それをお為ごかしというのです。要するに、天の蔵に宝を積む、陰でやっている、そういう心が宗教心なのです。
自然法爾。生かされたままで生きている。ただ「ありがたい、神さまありがたいなあ」と思う、そのままで生きていることがよいのです。
五井昌久著『不動の心-五井昌久講話集5』より