(前略)
生命をのびのびと生かす。のびのびとすることが要するに、生命が生きるということです。
赤ん坊を見ているとよくわかります。赤ん坊を抑えると嫌がりますよ。なぜかというと、いのちがのびのびと生きないといけないから。足と手を年中動かしてますよ。いのちが躍動してるんです。それを抑えようとは、赤ん坊は思わないでしょ。
ところがふつうの大人になると、蹴飛ばしちゃ悪いからちょっと足を止めるけど、赤ん坊は蹴飛ばしたって平気です。だから、赤児の如くなれ、というんですね。宗教家は″赤児のような心になって生きなさい″というでしょ。
そうすると、「そうか、オレはオッパイをのみたいから、ひとつきれいな娘さんのところへ行こう」、そういうんじゃない(笑)。業のほうではなく、いのちを赤児のように素直に生かせ、ということなんです。
私は昔、思ったんだ。「赤児のように生きろという。そうすると、こうやって遠慮したりするのはいけないのかな。赤児のようになろうか」と……。けれども出来なかった。なんでも言いたいことを言って、泣きたいとき泣いて、というようにやってみたら面白かろうと思ったけれど、とうとう出来なかった。
どういうことかというと、心の中に良心というものがあり、知性というものがあるからね。この知性は神さまから来ているんですよ。良心も神さまから来ているんですよ。だから出来ないんです。
赤児の如くなれというのは、いのちを素直に、いのちのまま伸ばして生きろ、という意味です。
だんだん大人になって教育も受ける。いろいろ出来てくると、頭が出来てきますね。頭が出来てきたら、いっぺん頭にあるいろんなものを捨てちゃうんです。全部神さまの中に入れちゃって、いのち素直に生かさなきゃならないんです。
よく神さまに任せろといったって、任せはするけれど、どうやって生きていいかわからない、という人があるけれど、それは嘘です。神さまに全部任せると、神さまのほうから自然に動かされます。私はその体験者だからね。
私は、肉体の五井昌久という者は(※神さまに)全部任せちゃって、”五井先生”になった。
(後略)
五井昌久著『自由解脱への道―聖ケ丘講話』より