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私のような人がだんだん増える

人間は想うだけのことを言いたいんです。溜めておけないの。溜めておくと病気になったり、不幸になったりするから言いたい。言える相手の人はどこにでもいるというわけでもない。

普通だったら嫌ですものね。またあの人は愚痴を言って、隣のお婆さんが来たら逃げよう、なんて思う。ところが私の場合は、逃げも隠れも出来ない。道場にいるから。「ああ、来たな」と思って、愚痴を「ああ、そうか、そうか」と聞いている。本当に聞いたって聞かなくったって私のほうはいいんです。

「ああ、さっぱりした。先生が聞いてくれてありがたい」と言って帰ってゆく。そうすると気が晴れてその日一日愉快。ところがこっちに想いはみんなかぶってくる。

たとえば電話がかかってくる。「五井先生、実はうちの子が40度の熱が出まして」「ハイ、大丈夫ですよ」ってこっちは言うんです。大丈夫と言うからには大丈夫の責任を取らなければならないでしょう。はじめ電話がかかってくる時なんか、いやな気持なんです。「実はうちの子が40度の熱が……」と言われたときはギョッとするですよ。

次の瞬間にわかりますから、「ハイ大丈夫」という言葉が出るけれど、その瞬間というものはなんともいえない嫌なものです。また、「先生、手形が今日割れなかったら破産なんです」という電話がかかってくるときの嫌なことってないです。

手紙もそうですよ。何か悪い人が来て、「こんにちは」といった時、「ああ」と思いますよ。「ああ、大丈夫」と次には思います。その瞬間の嫌なことが連続しているけれど、瞬間のひっくり返し、ひっくり返しがわかるからいいんです。

大丈夫と言う一言で熱が下がっちゃう。そういう責任は誰がとってくれるかというと、神さまと肉体の五井先生の連盟なんでね。肉体のほうと霊のほうと連盟して、「大丈夫」と言うんです。だから「大丈夫」と言った以上は大丈夫なんですね。ズーッとそうやってきている。それでみんな安心している。(中略)

このような人が在るということは大切なことです。たくさん出来たらいいと思うんです。そうすればこの世界の業の想いというものは、パッパッと消えてゆきます。私と同じような想いで、私と同じような教えをしてる人がたくさん世界中に出てごらんなさい。業想念はその人が背負って消してしまいます。

私のような人がだんだん増えます。身をもって身を投げ出して、みんな引き受けてくれるんですから・・。それを菩薩行というんですね。皆さんの中でも古い人は、いろいろ相談されると、「世界平和の祈りをしましょう」って世界平和の祈りをする。要するに世界平和の祈りの中に入っちゃって業がみな消える。

だから肉体の人がいなくてもいい。世界平和の祈りをみんなに宣伝して、祈ってもらえば、世の中はだんだん光明化してゆく。なぜならば、もう一度言いますが、神さまのみ心は世界平和を願っている。世界平和そのものが神さまのみ心なのです。

今日も、『オール読物』に宇宙人とのなんとか、というのが書いてありました。やはり宇宙人はいいことを言っているのです。嘘じゃないと思うんですけど、宇宙人はとにかく、平和ということを一番望んでいる、というんです。平和ということは、ただ言葉だけじゃだめなんです。心からの平和ということが一番望ましい。

心から平和を望んでいない者は誰もいないんです。だけど業想念で、「平和になりゃしない」と否定しているんですよ。

貧乏な人がいます。貧乏になれちゃうと、慣れるっていうと変だけど、貧乏に切り刻まれて心がしぼんでしまって、「私みたいな者は幸福になれやしない」、「私みたいな者は金持ちになれっこない」と思っているんです。

短気な人は「私の短気は治らない、性来短気だ」って威張ってる。気の弱い人は、「私は気が弱いですから、どうせ弱いから」とやっている。

自分で勝手に自分を神さまから離して弱いものにしているんです。弱いものにしている想いは自分じゃ離せない。自分じゃ離せないから、その離せない想いごと、そのまま、この身このまま、世界人類が平和でありますように、と神さまのみ心の中に世界平和の祈りで入っていってしまう。

そうやっていると、いつの間にか、弱い自分も、短気な自分も、不幸な自分も、貧乏な自分も、病気の自分も、みな世界平和の祈りの中に入って、溶けてしまうんですよ。

私のところに来まして、祈りをしていますと、気の弱い人が強くなる。鼻っ柱が強くなるんじゃないですよ。気が明るくなってくる。明朗になって顔色が変わってくる。美人になってくる。艶がよくなってくる。そういうように、だんだん変わってくる。

何故変わるかというと、世界平和の祈りは神様のみ心だからですよ。世界平和の祈りより良い祈りはないんですよ。

五井昌久著『不動の心-五井昌久講話集5』より