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想いを自由自在に使う

ある時、愛する弟子の一人がひどい病気のような状態で倒れ、苦しんでいた。先生は全く心配されて、その弟子の体をさすり、お祈りをなさった。その日は一日中、その弟子の体のことを気づかわれ、黙っていらっしゃる時間が長かった。

「ご心配ですね」とお尋ねすると、
「心配だよ。かわいそうにね、あんなに苦しんで……
けれど私は本当は心配していないんだよ。本当に心配するけれど、本当は何も心配しない。ただ光明を放っているだけなんだよ。

はたから見るとオロオロしているように見えるくらい、真剣に心配しているだろう。確かに心配している。しかし心配していない。わかるかな?わからないだろうね。」

「ええ、わかりません」

「五井昌久という個人の肉体がここに見えるから、肉体の私がいるかというと、いないんだよ。

こうやって私自身、肉体の想いがあるかな、我の想いがあるかな、とじっと見つめてみても、一つもその陰も出てこない。無いんだよ。

ただ三十何才までの、いわば悟らない前の性格というものがあるでしょ。それを時に応じ、処に応じ、人に応じて、その過去の中の想いをひょっと出してきて、それを使っているんですよ。

みんなは心配するといっても、シンパーイと、その心配そのものの中に入り込んで、ズーッと流れていってしまう。だから体がくたびれてしまう。

私はそうじゃない。シンパイ、それでもうおしまい。流れない。中にはまりこまないんですよ。

それを知っているということは、把われていない、我がないということですよ。肉体の私と神界の私が全く一つになってしまっているんです。

そして、五井先生となって、ここをじっと見つめて、過去の愛情の想いをひょっと取り出しては冗談をいっているんですよ。真実を明かせばね。

といって芝居ではない。本当のことなのです。想いを自由自在に使えるんだな。」

「先生、その肉体は無いんだ、ということですが、この体は神の器なんだ、神の体なんだ、と思えた時、肉体は無いということなんですか?」

「そうだよ、そう思えた時、ああ神様に使って頂いているんだ、生かされているんだ、と思えた時、肉体は無いんだ。

それをズーッとつづけられる人を覚者というわけ。一分間出来たら一分キリスト、一時間出来たら一時間キリスト、一日出来たら一日キリストというわけだ。

その時間を長くつづけてゆけるようにすればいいわけだね。世界人類が平和でありますように、と祈った時は、みんなキリストなんですよ。」

高橋英雄著『続々・如是我聞―五井先生の言葉』より