(つづき)
さて、生命を生き生きとさせている状態というのは、どういう状態をいうのでありましょう?
肉体の諸器官についていえば、諸機能が、障りなく順調に働いている状態でありますし、精神的にいえば、心になんの把われもなく、すっきりと晴れ晴れとしている状態であります。
一口にいえばこういうことなのでありますが、常にこういう状態に自分を置くのにはどうすればよいか、ということが問題なのです。
それは、自己の想念波動にも、他の人の想念波動にも、把われぬ心境になることが第一なのです。
自他の想念の波に把われることによって、神のみ心そのままに働くべき生命の流れを損ない、天命の遂行を停滞させてしまい、その人の運命を狂わせてゆくのであり、肉体の諸機能の働きをも損なわせてゆくのです。
前にも申しましたように、神霊の世界では、生命波動がそのまま光明波動であって、本心が生き生きと表現されてゆく世界なのです。
こういう世界はすべてが大調和していて、嫌なもの、不幸な状態という相がないのであります。
どうしてそうなっているかといいますと、本心と想念とが一つになっていて、同じ目的、同じ方向に働いているのです。
本心とは、神のみ心そのものであり、光明波動の本源であり、想念とは、本心の波動の伝わりなのでありますが、肉体世界においては、神界からの本心の波動が、物質界の粗い波動と混淆してまいりまして、光明波動そのものではなくなってしまい、天候で例えれば、曇りの状態になってしまうのです。
太陽は本当は光り輝いているのですが、雲に蔽われると、地上に届く光は非常に薄くなるというのと同じような状態なのです。
(つづく)
五井昌久著『神は沈黙していない』より