(つづき)
そして、どちらも之を玄という。つまり、霊妙不可思議なる、あらゆる能力を含んだ実在、即ち神そのものであり、神の現われである、というのであります。
その玄と老子がいっている、霊妙不可思議なる存在は、どこまでも深く、どこまでも広く、無限大にして、無限小ともいえる大能力であって、森羅万象のことごとく、この大能力、絶対力の中から生まれてくるのである、というのであります。
実際に神というものについての説明ぐらいむずかしいものはありません。こうして文にしてゆくと、どうしても眼に見える言葉として書かねばなりません。神そのものは人間の眼に見え、手に触れるものではなく、無限の広がりをもち、また無限に小さな姿ともなり得るのであります。
神を説明する場合には、どうしても現われの姿を通しての説明になってしまいます。哲学者などが神を説こうとして、じつにむずかしい言い回しをしてゆき、しまいには何がなんだか、読む側にはさっぱり判らず、ただなんとなく知識がついたような自己満足をしている、といった具合になってしまうのです。
老子が無名と云ったり、玄と云ったりして、説明している苦心がよく判ります。玄という言葉でよく使われるのは、玄人(くろうと)という言葉であります。玄人というのは、その道の達人ということを云ったもので、その道にかけては、至妙至高の力をもっている人をいうのであります。
玄とはそういう意味の言葉なので、神はあらゆる部門の最高至高の存在である、ということなのであります。
すべての力は神のうちより現われているのであって、人間が、我れという小我があるうちは、神の実態を知ることは出来ません。
そこで、我を捨てた空の姿になった時、神のみ心深く入ることになるのであります。
その空も老子によれば、浅い空、深い空があって、どこまで行っても行き着けぬ、深い深いものがあるというのです。
(後略)
五井昌久著『老子講義』より