(前略)
一番大事なことは、形ではなくて心の問題です。
心がいつも明るく、素直に神さまを敬いながら、人々と親しみながら、楽天的な気持ちになって、要するに神さまの愛を信じて、神さまに全部任せて、悠々と自分の天命を完うしてゆけばいいのです。
形の問題は二の次です。
神棚がなければいけないというもんじゃない。
(中略)
そうかと思うと、人が亡くなったから神さまを拝んじゃいけないだろう、忌中とかいって神棚に白い紙をはって、神さまを拝まない。
そんな馬鹿なことがあるかっていうんだ。
そういうくだらないのが、”形式に把われた”というのです。
神さまの前に出るのだから、うがい手水に身を浄め、というのはいいけれど、それは心の問題であって、忙しいときにそんなことをやってられないでしょう。
とっさの場合、神さまに助けてもらうとき、例えば難船などして、今にも沈みそうなときに、うがい手水に身を浄めるなんて、一体どうやる?(笑)
そんな馬鹿なこと出来ないでしょう。
実用向きじゃない。
そういうのは信仰じゃない。
形にとらわれている。
心がまっすぐ神さまにつながっていればいいのだから、うがい手水に身を浄めなくてもいいのです。
(つづく)
五井昌久著『魂が大きく開く時 (聖ヶ丘講話)』より