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形に把われるな(前半)

(前略)

一番大事なことは、形ではなくて心の問題です。

心がいつも明るく、素直に神さまを敬いながら、人々と親しみながら、楽天的な気持ちになって、要するに神さまの愛を信じて、神さまに全部任せて、悠々と自分の天命を完うしてゆけばいいのです。

形の問題は二の次です。

神棚がなければいけないというもんじゃない。

(中略)

そうかと思うと、人が亡くなったから神さまを拝んじゃいけないだろう、忌中とかいって神棚に白い紙をはって、神さまを拝まない。

そんな馬鹿なことがあるかっていうんだ。

そういうくだらないのが、”形式に把われた”というのです。

神さまの前に出るのだから、うがい手水に身を浄め、というのはいいけれど、それは心の問題であって、忙しいときにそんなことをやってられないでしょう。

とっさの場合、神さまに助けてもらうとき、例えば難船などして、今にも沈みそうなときに、うがい手水に身を浄めるなんて、一体どうやる?(笑)

そんな馬鹿なこと出来ないでしょう。

実用向きじゃない。

そういうのは信仰じゃない。

形にとらわれている。

心がまっすぐ神さまにつながっていればいいのだから、うがい手水に身を浄めなくてもいいのです。

(つづく)

五井昌久著『魂が大きく開く時 (聖ヶ丘講話)』より