祈りというのは、自我欲望、自分の肉体を守ろうとする想い、家族を守ろうとする想い、自分の利害関係という、すべての想いから発する念力というものが無くなった時に現れてくる。
本当のいのちの姿が現れてくる。
たとえば心臓があり、肺臓があり、胃腸があります。健康なときは、心臓が動いていることさえも忘れている。胃腸や肺臓が動いていることさえ忘れている。
思い出す時は、どこかが悪い時です。
ご飯を食べながらも、胃腸にどのくらい入ったかな、栄養がどのくらい吸収されたいるか、そんなこと思っていない。ただ食べている。胃腸が勝手にこなしている。心臓のことを考えないけど、心臓はちゃんと動いて、肺は呼吸している。
(中略)
考えない時はいい時なんだ。悪くなると考え出す。故障がない時は思い出さない。
それなんですよ。
いのちが障りなく、すみやかに動いている時、いのちがそのまま生きている時というのは、病気とか健康かではなく、いのちそのままで動いている。何も考えていない。
いのちの働きがそのような状態の時は、肉体を活かすための生活、貧乏とか金持ちとか、地位だとか名誉だとかいう生活環境もいいんですよ。よくなるんです。
いのちがすみやかに動いていない時代が、生まれてからこの方、過去世から今日まで、たくさんあったものだから、すみやかにばかり動いていない。そのマイナス面だけが生活環境の、貧乏になったり、不孝になったり、病気にもなっている。
(中略)
それを消すのがいのりなんですよ。
(つづく)
五井昌久著『講話集〈2〉みんな救われている (講話集 2)』より