(つづき)
消すためにはどうするかというと、いのちをすみやかに動かさないもの、邪魔して動かさない想いを、いっぺん、いのちの本質である神さまに返してしまう。
誰でも神から天からいのちが来ているのに決まっている。唯物論者でも、いのちがどこから来たか、自分ではわからないけれど、どこからか来ていると思っている。
私たち宗教家は、いのちの本源を神といいます。あるいは、仏という。そのいのちの本源である神さまに、自分の想いをすべてまかせてしまう。
心臓が動いているとも思わない、肺臓が動いているとも思わない、という想いと同じように、自分の生活環境もすべて、「神さま!」って神さまにお返ししてしまう。神さま有難うございます、と思う。
(中略)
だから自分の想いをすべて、「神さま!」って、神さまの中へ返してしまう。神さまを呼びさえすればいいと思うんです。
頭の中で出てくる想い、「ああじゃない、こうじゃない」という想いを神さまの中に返して、改めて生きてゆく。
そうすると、いのちが生きるということなんですよ。それがいのりなんです。
(後略)
五井昌久著『講話集〈2〉みんな救われている (講話集 2)』より