(つづき)
こないだうちの娘たちの修行などがすごいんですよ。言語に絶する。私は普通はやさしいんだけれども、「そんなことでなんだ、お前は神の子じゃないか、お前は……」と言うような調子で、いちいちぶん殴られて、それで修行させられた。そうさせられたから今は立派になってきて、男にも劣らない気力を持っています。
だからやっぱり甘やかしては人間は育たないね。だけど愛というものがあるからね。厳しくしながらも、その人の愛を感じる。そういうやり方でなければ駄目です。ただいたずらに、自分を見せるために叱ったんではなんにもならないんですよ。本当に愛して、本当にその人を立派にするために、心から叱る言葉なら、その人が生きるんですよね。
自分の偉さとか、立場を見せようとしてやるのなら、やらないほうがいいんですよ。そこが非常に微妙なのです。やさしくすることはいいけれども、甘やかしてはいけない。叱ってもいいけれど、自分の我があって叱るなら叱らないほうがいい。こういうことなんですよ。そういうことをイエスさんは言ってますね。
イエスの力はすごいですよ。さっきの出来事でわかったでしょ。千恵子さんが神霊群との交流をして疲れて倒れちゃう。そこへやっぱり隙を狙って憑きものみたいのがやってくるのですね。イエスと合体した五井先生が手を出して、「ハイ、右の手を出しなさい、左の手を出しなさい、つかまりなさい」私はその娘から遠く離れて、手などつかめないのですよ。「ハイ、起きなさい」スーッと手をあげると、スーッと起きてしまう。そういうように治っているんです。
だから皆さん、何も恐がることはありません。つき物があっても、先生が手をスーッとやれば取れるんだし、病気があったら、スーッとやれば治るんだ。では皆さんは何を想えばいいかというと、自分の生活なんか一切、五井先生に任せてしまいなさい。あらゆることを任せなさい。
私は全部引き受ける。そしてあなた方がやることは、消えてゆく姿で世界平和の祈り、迷いが出たら、甘え心が出たら、不安が出たら、短気が出たら、自惚れが出たら、それはみんな世界平和の祈りに、”ああ、これは私じゃないんだ、これは消えてゆく姿なんだ、世界人類が平和でありますように”と、もう心のそこから想わなきゃ駄目です。
心のどん底から想わなければ、自分が損しちゃうんですよ。神の子永遠の生命をここに現わすために、私たちは生きているんです。ただこの地球世界のくだらない楽しみをしたり、人に甘えたりするために生きているんじゃない。
(つづく)
五井昌久著『魂が大きく開く時 (聖ヶ丘講話)』より