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不幸を契機に運命を開く⑥

(つづき)

″神さまの子としての自分″というのは何かというと、光り輝いている自分、無病息災な健全なる自分なんです。怒りの心なんか出るわけがない自分、妬みの心なんか出るわけのない自分、そういう、神さまを否定する想いは出るわけのない自分なんですよ。

それなのにあるでしょ。それは、過去世の因縁が消えてゆく姿なんです。高橋君なんか、見事に過去世の因縁が消えちゃったわけです。死ぬか生きるかわからないその土壇場で、今まで水も飲めなかった人が、カステラが食べられるということはちょっとないでしょ。

どうしてそうなったかというと、病気の業想念があった、そこに私のほうから光が入った。それは任せたから、業想念にきれいに穴があいて、光が通ったんです。そのために業想念が、パッと消えていったんです。

業想念というのは、闇のようなものなんですよ。電灯がつけば明るくなるでしょう。まして太陽が照り輝けば、闇はなくなりますね。病(やみ)は闇と同じなんです。闇の心が病(やまい)なんですよ。

病気になって喜んでいる人はちょっとないでしょ。「おれは肺病だ、ガンだ、ありがてぇ」なんて言ってる人はないでしょ(笑)。心が暗くなりますね。闇なんですよ。

言葉というものは面白いもので、だいたい発音が同じ言葉は同じ意味なんですね。今度悟って、「ああ、すべては消えてゆく姿だ」と思うようになると、例えばお腹が痛かろうと、のどが痛かろうと、どこが痛かろうと、それに心が把われることはないんです。

斉藤秀雄さんなんかも、こうなる前に、死ぬか生きるかみたいな病気があったんです。だけど一日かそこらでパッと治っちゃった。それは、病気が消えてゆく姿とわかっていたからです。治ったあとで本当のものが現われて、今度は霊能的になって、いろんなことがわかるようになった。

だから、ひどい病気とか、不幸とか、貧乏とかがあると、あったのを契機として、パッと自分の中の心が開いて、本当の自分が現われてくるんです。

(つづく)

五井昌久著『自由解脱への道―聖ケ丘講話』より