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抜け目のある人がいい

(前略)

ふつう、この世で知恵のある人というのは、冷たい人が多いんです。頭のいい人というのは抜け目がない。

「あの人は抜け目がない」というのは、悪い意味で使う言葉でしょ。頭が良くてあんまり整っていると、人は付き合いにくい。なぜかというと面白くない。いわゆる業で固まっていて、中の光が出ていないから、暖かく感じなくて、何か冷たい、ひんやりしたものを感じるんです。

ちょっと抜けたような人は、付き合いいいですよ(笑)。みんなで喜んだりして、「さては抜けてるな」(笑)。

私だってそうですよ。現象的には抜けたようなところがあるんです。私はいつも、こうやって話をするんでも、まじめに、(声つきを変えて)「神様というものは、光明燦然としていて、君等のような……」とやってたら、誰も聞きに来ないですよ。「やだよ、先生の話はかたくて」なんてね。ところが時に抜けたような話をするでしょ。

それでお互いに抜けてるもんだから(笑)、共鳴するんですよ。「まったくだ」と、こう思うんです。そこが手なんです(笑)。

本当に抜け目のない人というのは、あんまりいいもんじゃないですよ。また抜け目のないような人は、ここに話を聞きに来ないんです。なぜ話を聞きに来ないかというと、自分だけでなんでもできると思うから。「おれは抜け目がないんだ。おれは頭がいいんだ。なあに、そんな人の話、聞かなくたっていい」と思うんですね。(中略)

ところがここへ来るような人は抜け目があるから、どこか抜けてるところがあるから、抜けてるところを足し増ししてもらおうと思ってやってくるんですね(笑)。どこか穴があいてたほうがいいんです。そうするとそこへ神さまの光が流れ入って来るんですから。

(後略)

五井昌久著『自由解脱への道―聖ケ丘講話』より