(つづき)
ところがお坊さんは、ここに現われている姿形も事柄も空なんだ、虚無なんだ、そして虚無は即ち物であり、現われである、とこう説くのですね。
これでは何のことを説いているかわかりゃしません。とらわれを放すことよりも、何も生きてゆく意義がなくなってしまう。生きてゆく意義もなくなれば、目的もなくなれば、何のために生きているのか、何のために人間があるんだか、さっぱりわからない。虚無なんだから何でも虚無なんですね。
そういうふうに説いていますと、実相がないんだから、みんな虚無から出てるんだから、虚無が現われて形の姿をしているだけですから、すべてがそういうことになります。肉体がなくなって、霊界に行ったときには何もないのです。真っ暗な虚無の中を、虚無の嵐が吹きすさんでいる。
虚無といったって実際はあるでしょ。あるんですよ、実際は。そこで何が現われてくるかというと、虚無、光のない闇が現われてくるんです。だから闇の中を、トボトボ、「虚無だ、何も無いんだ、虚無虚無」って歩いてる。飲まず食わずで歩いてる。飲むものも食うものも何もないところを歩くようになるんです。
だからそれを本当だと思って教わった人は、みんなお師匠さんのさ迷っている世界へ付いて行ってしまうわけです。虚無の世界、真っ暗な闇の世界へ付いてゆくより仕方がない。そういう教え方をすることは、お釈迦様のみ心に反すること甚だしい。
そういうのを、ものを知らないのに知っているふりをする、”自らを智者と思っている愚者”というんです。
知らなければ知らないでいいのです。知ったふりをした学者、お坊さんというのは、一番先に地獄に落ちる。
”色即是空、空即是色”も、形に現われていることだけを説くから結局、虚無になって、「この世は何もないんだ、肉体もなければ何もない、何もない、無い無い」と言っているのです。
”何もない”と思うものがそこにあるじゃないですか。思わせるものがあります。生命もあります。それをただ、無い無いと言っただけでは、なんにもなければどうしようもないでしょ。
そういうことを、お釈迦さまほどの智者が説くわけがない。
(つづく)
五井昌久著『空即是色-般若心経の世界』より