(つづき)
学校でもそうでしょ。小学校から中学校、高校、大学と上がるわけですが、みんなお父さんやお母さんがやってしまってごらんなさい。なんにも身に付かない。卒業して社会へ出ても、何も出来ない。
それと同じように、自分で勉強して、自分で苦心して、辞書でも引いて自分で勉強する。そして足りないところはお父さんやお兄さんが助太刀してやるわけでしょ。宗教の世界でもそれと同じこと。
しかし、肝腎要の危ない時には、必ず神様が救ってくださるわけ。守護霊守護神のほうで必ず救ってくれて、「これじゃいけないから五井先生のところへ行け」といって、私のところに連れてくる。それで私が引き受けて、グーッと引き上げてしまうわけです。
だから何が頼ってきても、一つも心配することはない。最後は五井先生のとこに来ることは決まってますからね。
ちょっとやそっと肩が痛かったり、お腹が痛かったりしても、何が来たってそんなの問題じゃないですよ。消えてゆく姿だから治るに決まってる。
そのために、消えてゆく姿という教えがあるんです。
本当は完全円満なんだから、(中略)迷っているものはなんにもないわけなんです。ないわけなんだけれども、迷っていると思ってる想いが迷いとして残ってるわけなんですね。
そこで、頼られたほうの人間が″ああ、みんな消えてゆく姿なんだ。みんな神の子で光り輝いているんだ″ということが本当にわかれば、近寄ったものがみんなそのまま、光が行くから浄まっちゃうわけです。
(つづく)
五井昌久著『講話集〈5〉いい時に生まれた (講話集 5)』より