(前略)私は人の顔を観ているけれども、この目で見ているけれども、実は見ているだけなのであって、きれいだとか穢いとか思っていないのです。
何が見ているかというと神の目で、奥からその人を観ている。心を浄めているだけなのです。
そうすると、向こうが私を愛している、私を一所懸命慕っている。慕っている感情だけ愛情が映って、こちらが余計に愛する。二重三重になっている。
けれどもこっちの想念は何もない。だから向こうが慕うだけ、こっちが愛するんですよ。
”汝の信仰汝を癒せり”で、向こうが一所懸命慕っているだけ、向こうに感応して還ってゆく。100%愛すれば100%愛される。120%愛すれば120%愛される。向こうの想いがそのまま映って、向こうへ還ってゆくのです。
その想いが還ってゆくときに、光をともなって還ってゆく。だから愛されますよ。神の光をともなって、愛の想いとして、そっちへ還ってゆくんですから……。
だから私は、「先生!」と思う人はかわいいと思うのです。子供なんか無邪気ですからね。「先生!」って、ひざの上に抱っこするでしょう。かわいい、100%かわいい。私は目を細めて、まるでだらしのない顔をしている。
この間、そういうところを写真に取られちゃったのです。私はこんな顔をして子供を見ているのかな、と思ってね。悪い顔じゃなかったですよ。うっとりしているんですよ。それは、向こうがうっとりするからです。
”叩けよさらば開かれん”、”求めよさらば与えられん”、”汝の信ずる如く汝になれ”というのは、そういうことなのね。向こうさんが思うとおりに神さまは与えるのです。その与えるものは何かといったら、愛です、光です。(中略)
その時、神さまの光がそのまま入ってゆく。だから五井先生を愛した場合には、神さまの光はそのまま入ってゆく。愛しただけ還ってゆく。
それをもっと深く言いかえれば、五井先生なんか無くたっていいんだ、なんにもなくたっていい。自分が本当に愛の心で神さまを慕って、本当に愛していれば、そのままその人の愛の世界が出来上がるのです。(後略)
五井昌久著『私に荷物を預けなさい (聖ヶ丘講話)』より