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真実の愛を行じるために

(前略)

愛には他を責め裁くことも、自己を責め裁くこともないのであって、責め裁くときには、神の愛はそこから消え去っているのです。これは言葉だけで知っても駄目です。自分自身行なわなくてはいけません。(中略)

愛とは単に言葉に現わして言うだけのものではない。自己の生命全体が、相手の生命と融け合って、はじめて生まれて来る感情なのであり、自分と相手とが離れた存在ではなく、全く一つの者である、という純粋感情によって行なわれる行為こそ、愛の行為といえるのであります。

自己の心に感ぜられてくる相手のマイナス面、嫌な言語動作、それはすべてカルマの消えてゆく姿であって、相手自身の生命(本心)から発しているのではないということが、瞬時に理解出来るようになれば、その人は深い真愛の持ち主ということになります。

愛の心とは、人間の業想念行為を把える心でも、相手の誤りを把える心でもなく、また自分自身の業想念感情の満足や利点のために、相手と融合し、仲良くすることでもないのであって、ただ単純素朴に、自己の生命が相手の生命とひとつになることなのであります。

イエス・キリストは全くこの愛を行じ得た聖者だったのです。皆さんはよくよくこのことを考えられて、自己の想いを検討なさることがよいと思います。

(後略)

五井昌久著『愛・平和・祈り』より