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たゆまざる“いのち”の洗濯を①

(前略)祈りというのはいのちの洗濯、いのちをあらわす、り出すこと。

ほこりや汚れがいのちにくっついて、魂が汚れてたわけです。人間の一言一言は汚れなんです。それを原罪というんですよ。

人間は太初はじめから汚れている。要するに、大地に生まれて、地球界に生まれてきて、肉体となったときにもう汚れがついてるんです。

地球という粗い波動に同化してゆくわけだから、細かい微妙な完全なものが不完全の中に入ってゆくわけだからね。不完全なものを完全にしようと思って、完全なものが入ってきたんだけれども、完全に戻るには時間がかかるでしょ。時間がかかる間だけ汚れているわけですね。

だから人間というものは太初から汚れているもの、それをアダムとイブの原罪という。聖書では原罪と言ったんですね。(中略)

しかしそう言われたって、罪の子と言われたってわかりゃしませんわね。ところが実際においては罪の子なんだね。地上界に、物の世界に生まれた時に、やっぱり完全な微妙な波動は出ないんだから、本当の力が出せてないんだから、その出せてないだけ罪の子なんです。

ものを食べたりして、お互いがやっぱりいろんな物の犠牲において、こうやって生きてきたわけなんです。

例えば人間が生きてゆくためには、虫も殺すでしょうし、食べるために動物を殺す、いろんなものを殺しているわけですよ。

人間というのは生きているかぎり、あらゆる犠牲の上に成り立っているわけだ。

その犠牲を犠牲ではなくて、これを功徳にならしめるためにはどうしたらいいかといったら、人類世界を神様のみ心の理念どおりに顕せばいいわけ。

神様のみ心の通りに、この地球世界を創り上げれば、そこで初めて、完全円満ということが出来上がるんですね。

神様の世界が地上界に出来上がるまでは、完全円満な人間なんかありっこないんだし、完全円満ということはないし、やっぱり罪の消えてゆく姿なんです。(つづく)

五井昌久著『講話集〈4〉想いが世界を創っている (講話集 4)』より