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神そのものの生き方ができるように

みんな神さまの生命では交流していて、平等に交流していて、天と地をつないでいて、光り輝いているものなのですよ、ということなのです。

これは真理なのです。法華経でもあり、その行じている姿が神道なのですよ。神道では言霊といいまして、アイウエオ五十文字、これは神さまの光なのです。神さまの働きなのです。アイウエオにはそれが現われているのです。ところがアイウエオと言ったってわからないでしょう。

植芝先生(合気道創設者)はこれを実際に体で現わしている。言葉は神さまの光になって流れている。だからみなさんの中でも、アの働きをしている人もあるだろうし、ウの働きをしている人もあるだろうし、イの働きをしている人もあるわけです。だけど、そう言ってもわからないですね。

そこでどうしたらいいかというと、自分の業想念を全部神さまの中に返す世界平和の祈りをしていれば、わが天命を完うせしめ給え、という祈りをしていれば、自ずから、神さまのほうから、自分の本心のほうから、自分の仕事が決まっちゃうわけです。アならアの働きをするだろう、ウならウの働きをするだろう、そのように仕事をしてしまうわけです。

自分が神(かん)ながらの生き方といって、神さまそのものの生き方をするということは、自由自在で、自分の我の想いが少なくて、ほとんどなくて、それでそのまま自由自在に動いていながら、いつもいい行いばかり出来る、こうしよう、ああしようじゃなくて、自ずから動いていることが、そのままいい行いになっている、という生き方をすることが、神ながらの道なのです。それは神道なのです。

神道というのは言葉じゃなくて、行いなのです。その神道の生き方が出来るために、キリスト教で説いたり、仏教で説いたり、いろんな説き方をして、そこまで持っていくんです。そして、みんなが神そのものの姿になる、八百萬(やおろず)の神になる。高天原(たかまがはら)に神(カム)ツマリといって、神づまるんです。

高天原を日本とすれば、神づまっちゃう。みんなが神そのものになっちゃう。神さまそのものというのは、行いのことですよ。神さまだからさだめしきれいな男の人だと思ったら、頭がはげていたり、鼻が曲がったりするでしょう。だけどもそれは形の世界なのです。いくら神さまの心そのまま現わしても、急に鼻が高くなりゃしないんだ。

形のことはそれはそれでいい。行いが変わってきます。それで或る時間を経過してゆくと、顔がだんだん変わっていくんです。心がパッと変わったから、顔もパッとよくなるかというとそうはいかない。心がだんだん変わってゆくと、知らない間に顔が変わってくるのです。

五井昌久著『責めてはいけません-聖ヶ丘講話』より