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消えてゆく姿とは消していただく姿である


消えてゆく姿のみ教えは、腹が立った時、憎いと思った時に、すぐに消さないと消えてゆかないものでしょうか。

回答
消えてゆく姿の教えは、業想念や誤った行為が現われようとする時に、そうした想念や行為は真実の自分の心や行為ではなく、「消えてゆく姿なのだなぁ」とおのずと思えるようになって、その瞬間にそうした業想念が消え去って、晴れやかな気持になっている、というところまで、かなり短時間で熟達でき得るように、守護の神霊の大きな愛の働きがあるわけなのですが、はじめの頃は、どうしても自分で消そうという力みがあるので、守護の神霊の光のほうに自分の想いが通ってゆかないのです。

消えてゆく姿という教えは、消してゆく姿ではなくして、守護の神霊の光明の中で、自己の業想念を消してもらうのであります。

ですから腹の立ちっぱなし、憎みっぱなし、妬みっぱなしでは、そこには少しの反省も悔いもないのですから、その人の業想念は消えるはずがありません。(中略)

問のように、業想念の起こった時に、すぐ消さないと消えないか、というのは、このすぐ消すというところを、守護の神霊の光明の中、つまり世界平和の祈りの大光明の中に祈り言とともに、そうした業想念を入れてしまう、というふうにすれば、業想念を発した直後でなくとも、気持ちの落ち着いた後でも、その業想念は消えてゆく姿になります。

しかしなるべくは、腹が立ってきた、憎しみが湧いてきた、という時に、それを行為に現わさぬうちに、その想念を持ったままでよいから、世界平和の祈り言を唱えるのです。

それは声に出さなくてもよいし、出してもよいし、どちらでもそのときの都合でやればよいのです。そうするほうが、より早く、より素直に、その人の業想念は消え去り、本心の光がその人の想念行為となって現われることになるのです。(中略)

消えてゆく姿の教えは、あくまで消えてゆく姿であって、肉体人間の側からは、決して消してゆく姿としてはいけないのです。このことは間違いやすいことなのですが、非常に大事なことなのですから、よくよく覚えておいてください。(中略)

どうしてこういう教えが生まれたかと申しますと、私自体が、人間の本体は神のみ光そのものであることを確認したことにより、人間は神の子なのだ、光そのものなのだ、業想念は実在ではなく消えてゆく姿なのだ、とはっきりいえる立場になったからであります。

そして、その上に、世界平和の祈りのひびきである救世の大光明が、世界平和の祈りを祈るところに、この大光明を放射される、という神示を受け、それを人々に実行させていると、実行している人みなが、大光明に照らし出される現実をハッキリ認めることができるようになったのです。

ここにおいて、いかなる業想念も、世界平和の祈り一念によって、消し去られてゆき、祈る人々の本心が輝きだすとともに、その周囲の人々にも救世の大光明の光がゆきわたってゆくのだ、ということを確認し、本格的に祈りによる世界平和運動を展開したのであります。

この運動はあくまで、思念の力によるものではなく、幼児が母親にすがってゆくような、ふわっとした素直な、楽な気分でやれるところに大きな大衆運動になり得る可能性をもっているのです。

五井昌久著『宗教問答 (続)』より