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いのちをかけて祈ろう

人間は神の子円満完全であると拝み(祈り)合いをするなら、中途半端な拝み合いではなく、底の底から、自分の生命をすべて投げ出して、拝み合うことです。徹頭徹尾拝むことです。

どんな現われが出てこようとも、これで業が消えてゆく、消えたのだ、ありがとうございます、と拝むことですよ。

そうなるためには練習が必要なのです。毎日毎時毎分、神を想い、感謝することです。ひたすら守護霊、守護神を想うことです。

たった一回想っただけでそうなる、なんていうものではないのです。一朝一夕で出来るものでなく、毎日欠かさず守護霊に感謝していれば、必ず現われてきたものが、業からきたものか、神よりきたものか、区別できるようになり、本当に拝めるようになって、感謝できるようになるのです。

拝むということは生命(いのち)がけのことなのです。ですから拝むなら生命がけの拝み合いをすることです。

頭の中で観念で知っても、実行されていないなら、拝み合いなどとんでもないことで、それこそ観念の遊びです。

まず守護霊、守護神に感謝しつつ、天につながることです。つながれば上から光が入ってきて、本来人間の清浄さをおおっていた業の汚れが消えてゆきます。

ただ単なる私は神の子であるという想い方とか、南無阿弥陀仏と唱えるだけでは、本当に救われないのです。(それだけでは)霊の清浄さを汚す業を祓うことができないのです。(後略)

五井昌久著『生命光り輝け-五井昌久講話集1』より