(前略)愛とは情ではないことを申し添えて置きたい。
情は愛から生まれたもので、愛情と一つに呼ばれているように、愛とは切っても切れぬ関係がある。
そのため仏教では、愛さえも業と呼んでいて、迷いの本体である、と説いている。そして、この神の愛を慈悲と呼んでいる。
私が今まで愛と書いてきたのは、情(執着)ではなくて、英語でいうCharity(大慈悲心)のことである。
しかし、愛は善で、情は悪である、と簡単に割り切ってもらっては困る。この現世では、光に影が伴うように、愛には情がつきまとうのである。
切りがたい情を涙を呑んで断ち切ってゆくところに、人間の美しさがあり、愛の輝きがいやますのである。情を簡単に切れることが、その人の冷酷性の現われであったりしたら、情にとらわれやすい人より、なお悪いことになる。
愛深い人が情に溺(おぼ)れぬように自重してゆく姿には、美があるもので、そうした人の動きの中に、神のこの現象世界における生き方が示されているものと思われる。(後略)
五井昌久著『神と人間―安心立命への道しるべ』より