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人生における守護の神霊の導き①

問34
今まで講師の方から教えられたことでございますが、我々の日常の想念行為は過去世の因縁の現われである、これは仕方のないことであるんだ、だから腹が立った、あるいはお酒が呑みたいな、という欲望が起きて来た時、これはいけないといって抑えるのは思いを溜めてしまうことだからいけない、出したほうがいいんだ、のびのびした生命、生き生きとしている生命を抑えてしまうことはよくない。だから過去の業の映ってくるままをやったらいいんだ、というふうに教えられました。

もう一つは、守護霊守護神というのが絶えずついていて、本人のためによくないことは守護霊守護神がやらせない。だからあえてやるのは、その場において悪いように見えても、必ず本人のためにいいのだ、というのです。

例えば親鸞上人の話しで、唯円房に、「殺すべき宿縁があれば百人でも千人でも殺す、殺すべき因縁がなければ命ぜられても殺せない」と答えています。そうすると、例えばデパートに行って立派なものを取ったとすると、守護霊守護神がついていて取らせない働きがあるというんですね。もし取ったとしたならば、その報いを受ける。みんなの前で恥をかかせられる、警察に引っ張ってゆかれる。ひどい目にあったことで今後そういうことはしまいという、大きないい結果になって来るんだ、だから我々は結局、守護霊守護神が常に離れないで導くのだから、遠慮なく思い切ってやりたいことはやったらいいと、こういうふうな教えを私は聞いたのですが……。


その講師の言うことは半分本当です。しかし、一知半解です。宗教も何もやらない人、あるいは他宗の人たちがその話しを聞いた場合、「ああこの人の思想は危険だなァ」と思いますよ。(中略)

やる者はやるようになっている、やらない者はやらないんだ、ということは本当です。泥棒する因縁がなければ泥棒しないかもしれない。

しかし、それは自分でもわからないじゃないですか。とにかく過去世の因縁というものがあって、八十パーセントはその因縁に流されている。

二十パーセントこの世において修正することが出来る力があるんだ、と私は説いています。

その二十パーセントの力は、知性と素直さなのです。それが感情の爆発や欲望を、抑制したりする。

私は本当は押さえろとは言わない。やりたいことはやるつもりで、(業が)出かかった時に、これを平和の祈りに入れちゃいなさいとか、気分を他にかえなさいと、転換させてしまう。(つづく)

五井昌久著『質問ありませんか?―聖ケ丘講話』より