神さまのいう平等とは何かというと、自分の役目を果たしてゆく、自分の課せられたる役目、天命を果たしてゆく。
足の天命の人もあるでしょう。指の天命の人もあるでしょう。手の天命の人もあるでしょう。目の天命の人もあれば、頭の天命の人もある。
目と鼻とどっちが偉いっていうことはない。眼は上にあるから鼻より偉いといったら、眉は目より上にあるからまた偉いということになるけれど、何がなくても困りますよね。
だから各々が自分の立場でもって、全力を尽くせるような、迷わないでやれるような、そういう世界が出来ればいいですね。
恐怖がなく、苦しみがなく、楽しく楽しく、その場その場の与えられた職場を守ってやってゆけるようになれば、これは地上天国ですよ。
今はそうじゃないでしょ。働いても恐怖が常にある。食えなくなりゃしないかという恐怖もある。病気になりゃしないかという恐怖もある。
原水爆の戦争になりゃしないかという恐怖、あるいは、天変地変がきやしないかという恐怖もある。そういうように、一所懸命やっていても、年中恐怖が満ちているんですね。(中略)
残されたのは何かというと、神さまにつながる政治、神制政治、神権政治といっていいけれど、神様の政治が行なわれなければだめなんです。
この神さまの政治が行なわれる時がやがて来る。もう間近いのです。もうじき神さまの世界の第一段階が出来るんです。
それで皆さんは、その神さまの世界の住人なんです。神さまを思ってらっしゃる人は、神さまの世界に住んでいるんです。
五井昌久著『不動の心-五井昌久講話集5』より