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愛ある指導の在り方

(前略)愛はすべてを生かし、すべてを癒すのであって、愛のほかの想念行為はみなすべて消えてゆく姿なのであります。

肉体人間としての自己がここにあって、相手を愛するのではなくて、自己と思う想念が消え果て、相手の生命、相手の心と一つ流れになった時、なんのこだわりも、なんの苦悩も、なんのわずらいもない、純粋無垢なる生命の交流、神の愛がそこに現わされてくるのであります。

私のためとか、あなたのためとか、そうした自我をもった想念で自分や人を愛したようにみえても、その愛の中には、どこか純粋ではない、業想念の片鱗がみられるものです。

自分はあくまで、自分自身の立場に立ちながら、しかも、自分自身がその場に消えて、相手の心と一つになってしまう。一つになった心の中には、神のみ心が生き生きと光り輝いている、というのが、愛の本然の姿なのであります。

よく宗教者に悩み事を相談にゆくと、「あなたの愛が足りないからですよ」とか、「あなたの心に不足や不満があるからだから、まずその不足や不満を捨てなさい」などと言われることが多いのですが、事実はまったくその通りであるにせよ、そうした心が素直に出せるようなら、何も人に相談にゆく必要はないので、相談にゆくというのは、誰かに自分の立場を知ってもらおう、誰かに愛してもらい、慰めてもらおう、という気持ちが働いているからなのであります。

ところが愛されるどころか、かえって叱られて帰されてしまっては、その人の業想念は消え去るどころか、内部に圧縮されて、厚い層をなしてしまいます。私はそうした人々の想念が霊覚でよくわかるのであります。(後略)

五井昌久著『霊性の開発』より