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真実の救われとは

一般的にいわれている救いとか、救われとかいうのは、生活に困っている人にお金をやったり、仕事を世話したりしてやって、その人の生活を救った。それによって救われた。あるいは、病気で悩んでいる人を救った、救われた。または、仕事を援助してやって救った、救われた。等々の現象面、現われの面を主題にしての救いであり、救われでありまして、これは、その生活の一時期の救いであり、救われであります。

これも、もちろん救った方は善事であり、救われた方にとっては有難いことではありますが、これだけでは、宗教的な救い、救われ、真実の救い、救われとはいえないのであります。

宗教的救いは、仏教でいう法施でありまして、真実の人間というものを知らせる、真実の人間の生き方を知らせる、つまり、本心を開発させ、神仏を人間の生活に発現させることであるのです。

救われたという方は、神仏と人間の関係を知り、神仏のみ心を知って、神仏のみ心、つまり、愛と真の生活を行じられる心境になっている人、ということになります。云いかえますと、真実の救いとは、精神的、霊魂的救いであり、永遠の生命(神の生命)を人間生活に発現させ得る心の状態をいうのであります。

こうした救われに入った人は、自我欲望少なく、、あるいはなく、その日常生活において、常に真善美の生活が、巧まずして自然に行じられている、その人の想いには、何らの不安も恐怖もない、ということになるのであります。ですから、真実の救われに入りたい人は、精神的な安定、不動の心を求めて進まなければなりません。

その場その場だけの生活の安定を求めていては、一難去ってまた一難というように、常に不安の想いの去りやらぬ生活を送りつづけなければなりません。その不安はこの世だけでなく、死後の世界にまで、ひきつづいて展開されてゆくものなのです。

この不安の想念を超越出来得る心境になることが、神の救われの境地なのですから、その境地になるためには、どうしても、人間の本源である絶対者(神)との一体観を観じなければなりません、神仏と自分は一つのものである、という直覚こそ、人間の真実の救われなのであります。

しかしなかなかその境地になり得ませんから、私が説いているように、守護の神霊が、常に自分を護っていて下さって、自然に人間の本心(神)を発現させて下さるのだ、と深く想う練習をしつづけ、守護の神霊に感謝しつづけて生活してゆく道こそ、知らず知らずに、真の救われの道、神我一体の境地に、その人を引き上げてゆく一番やさしく、一番確実な道なのであります。

神様は、特定の人々のみを救おうと思っているのではなく、人間すべてを救い上げようと思っていらっしゃるのです。何もむずしい理論や、出来難い行をしなければ救われないというものではありません。そのために、救世の使者として、守護神、守護霊をあなた方一人一人の背後に配置して下さっているのです。

あなた方が真実の救われに入るために、是非共なさねばならないことは、眼に見え、声に聞こえずとも、自分たちの背後には、常に休みなく守護の神霊が、守りつづけていて下さるのだ、とその方々に感謝していることだけなのであります。あとの行為は、その感謝を根底にして、自ずから展開されてゆくのであります。

五井昌久著『宗教問答』より