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神仏の心を自己のものにする生き方(後半)

(つづき)

宗教者の目指すところは、神仏の世界でありまして、神仏を離れた自我の世界ではありません。

釈尊が空になる座禅観法を教えたのは、空にならずに、想念波動のエネルギーをつかっての念力の修練では、三界の苦しみを超えることができないのを知っておられたからなのであります。

釈尊が、バラモンの教えを超越した仏教を建てられたのは、念力をも含めた、あらゆる肉体人間の把われを放つことによって、人間は神仏の世界と一つになり得るのだ、ということを教えたかったからなのであります。

人間はいつかは、神仏をはっきり自己のものとすることができるようになるのですが、その時代の前に、自己の力ででき得る方法として、念力を謳歌する時が来ると思います。そうなれば、念力合戦のような状態が諸所で起こってくるでしょう。

しかし、真の宗教者は、そうした念力とはかかわりなく、祈り心で明るく正しい生活をつづけていればよいのであります。

世界平和の祈りの日々こそ、明るく正しい生活をつづけるための神との一体化の祈りなのであります。

頂き直す生活と、世界平和の祈りの生活こそ、この汚れ切り、乱れ切った地球世界を浄め、大宇宙の一員としての、地球世界につくりあげてゆく、もっともよい方法なのであります。

(後略)

五井昌久著『聖なる世界へ』より