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真実の愛行について④(完)

(つづき)すべては他にしてやっているのではなく、神に対する感謝として、他にさせていただいているのであって、してやっていることなど何もないのです。

これはやさしそうで、なかなかむずかしいことですが、「すべてが、大きな自分が自他に分かれてこの世に現れているのだ」と思えば、自然な行いとして愛行できることになるのです。

世界平和の祈りなどは、自分にかえってその効果の大きさがはっきりわかっていないだけに、何気なく、自然に他の人のためにも祈ってやれるわけなのです。

大上段に、愛の根本精神について申しましたが、皆さんは何気ない行為の中で、かえって、真実の愛を行じている場合が多いのです。

小さな親切といわれる行為がそれです。

落とし物をわざわざ届けてやる、といったことや、交通信号でまごまごしているおばあさんを親切に向こうまで渡してやるとか、母親が忙しくてかまっていられぬ子どもの面倒を見てやるとか、あまりたして愛行をしているようでないことのほうが、自然に神のみ心にかなった行為になっていたりするものです。

要は、自分がしてやっているんだ、してやっているんだ、という想いを捨て去って、自然な何気ない態度で、大きな愛行でも出来るようになることが大事なのです。

それは、その人格が備わっている人は別として、普通の人は、常にたゆみない世界平和の祈りの中から、そうした人格が自然と養われてゆくのであります。(おわり)

五井昌久著『宗教問答 (続)』より