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やるなら徹底しなさい!(後半)

(つづき)今は滅びるか救われるかのどっちかです。中途半端な時代ではないのです。中途半端な宗教など成り立たないのです。中途半端な宗教など止めなさいというんだ。

そんなもの止めてしまって、唯物論者のように、自分の力で人を押しのけて、どんどんやったほうがいい。どっちかにしろっていうんだ。

やるならやるで全託して、神さまの中にしゃにむに、なんていっても、どんなに苦しくても、胸がかきむしられても、血を吐いても、平和の祈りの中に入ってゆかなければ駄目だ。どっちかだね。

ご利益信仰だけで足りる人はご利益信仰にいくがいい。私のやっているのは、ご利益を与えることだけが本筋ではなくて、本心の開発、自分の魂が本当に神さまと一つになって何の不安もない、安心立命の生活がそこに築きあげられるような、そういう導き方をしているわけです。

それに付随してご利益がどんどん出てくる。自分の満足も出てくる。想いの満足じゃないんですよ。宗教的法悦というのでも、間違えて、自分の想いが満足したからありがたい、うれしい、とやる。想いの満足なんて業想念なんだ。

業想念で満足したりうれしがったり、悲しがったりするのは駄目なんです。そういう業想念を超えたところに本当の宗教があるんです。それを私は説いているんですよ。

宗教というのは、どんなに悲しい想いや、辛い想いがあろうと、その想いのままジーッと辛抱して、祈りの中に入ってゆくんです。入ってゆくに従って、ズーッと消えてゆくのです。それが宗教の生活なのです。

やはり自分の運命というものは自分が築くのだから、自分がしっかりとしなければ駄目ですね。自分がしっかりとして神さまの中に入っていくのです。

世界平和の祈り一念で、何があろうと祈るんだ、どんな辛いこと悲しいことがあっても、なんでも、祈り、祈り、祈りつづけなければ駄目ですよ。そうすると、パーッと開けます。それ以外に救われる道は絶対にありません。(後略)
(おわり)

五井昌久著 『魂が大きく開く時 (聖ヶ丘講話)』より