(つづき)ところが幽身は肉体身のように循環のしかたが遅くはありませんので、非常なスピードでその人の想念行為がその人自身に還ってきて、自己の出している想念波動の通りの世界を、自己の環境に繰りひろげてゆくのです。
神を認めていない人は、神の光の無い世界、闇の世界を経巡り、不幸の想いに把われていた人は、不幸の想念波動の世界で、翻弄されつづけるのです。
死んだら楽になるどころの騒ぎではなく、肉体身での不幸などと比べようもないほどの苦悩を幽体界では味あわされるのです。
私たちはその原理をよく知っていますので、この世の不幸や災難は、すべて過去世の業因縁の消えてゆく姿と思って、自分の不幸を嘆く想念の中にいつまでも把われていずに、世界平和の祈りの中に、そうした想念ごと入りきってしまいなさい。そうすれば、救世の大光明の慈愛の光が、あなたの不幸や災難の起こってくる過去世からの業因縁をスッカリ消し去ってくれますよ、と説いているのです。
自己というものは、内的に観れば、直霊、分霊として生命輝やかに存在するものであり、外的に観れば、守護神、守護霊の守りによって、この世の生活を営んでいるのであります。
ですから、神が無いと言おうと、守護神、守護霊などあるものかなどと言おうと、その人は常に神のみ光によって生かされているのであります。(おわり)
五井昌久著『生きている念仏』より