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芸術精神と宗教精神①

人間とか自然とかの、本当の姿を見極めてゆくことが、宗教精神であり、芸術なのです。

バッハとかベートーヴェンとか、ミケランジェロやロダンという素晴しい芸術家などは皆、肉体の頭で作曲したり、彫刻したりしたのではなく、直観に感じて作ったのです。

ベートーヴェンは耳がきこえなくなってきた時に、よりよい作曲をしました。ということは、天来の声をそのまま作曲して、音楽に表現したのです。それが素晴しかったのです。すなわち直覚であらわしたわけです。

彼は前生においても相当音楽を勉強したし、天与の才を磨いていたので、すべての自然の動きや天来の声をきくことに慣れていたのです。それに彼はヨガなどのインド哲学、神秘宗教を研究していて、宗教精神も養っていたのです。彼もまた霊覚者だったのですね。

本当の芸術精神は宗教精神と一つなのです。神さま、神さまと、ただ手を合わせているだけでなく、目に見る、耳できく、自然を通して神の姿を見出すことの訓練も必要です。

道ばたの雑草を見ても、ふと蹴飛ばした石ころを見ても、あるいはどんな花を見ても、ああ、ここに天地の生命が、その一点に集中してこの石となり、草となり、花となっているのだなあ、と想うことが出来るような目や心を養うことですね。

よい詩、短歌などをなるべく多く読み、あるいはよい音楽とか絵を、数多く聴き、見て、心を鍛錬していると、奥の本体を把握してゆくことが自然に出来るようになるものです。

宗教的方面からその本体を見るか、芸術的方面から見るかは、各人それぞれ違ってくるでしょうが、いったいに宗教をやる人というのは、変に嫌な”くさみ(臭み)”があるのです。私は、皆さんがくさみのない人になっていただきたいと思うのです。

宗教的くさみを取るためには、本当の美を追求して、芸術の目を養うことです。そうすれば、くさみもなくなり、こり固まりも消えてきます。宗教心というものは、表面にあるわけではなく、内にあるもので、内に内にと入ってゆくものです。

これ以上は、という絶体絶命になって、たまらなく溢れ出るものなのです。自然ににじみ出てくるものであって、すうっと相手の魂にしみこんで、光を与えるものなのです。そうなるため、仕事のひまには、常に花を愛(め)で、草を愛で、あらゆる自然を賞する心を修練する必要があるのです。

そうすれば、神さまが巧まずわかってきます。言葉で神さま、神さまと言ってばかりいては、宗教の一つに固まってしまい、いかにも私は宗教をやっています、というくさみが出てくるのです。

言葉にはいくらでも言えるし、現わせるでしょうが、しかし、神さまを日常生活の行動に現わしてゆくことが、望ましいし、本当なのです。(つづく)

五井昌久著『生命光り輝け-五井昌久講話集1』より