声の言葉で相手を立派にするというよりも、人格そのものが、その人がそこにいることによって、周りが浄まってゆく、知らない間に柔和な、いい人々に生まれ変わってくる、という、そういう人間に、皆さんの一人一人がなることが一番大事なんです。
声の説教というのには、嫌がる人もずいぶんあるわけです。しかし、柔和な、温かい、親切な人柄に接すると、その人柄から発する光によって、口をきかなくても、ああ、なんていい人なんだろうな、とか好意をもつ場合が随分あります。(中略)
言葉以前の光、想念が光になっている。言葉以前の自分の人格というものが、光り輝いているようになれば、“あなた、こうしなければダメですよ”なんて言わなくても、光が向こうに伝わっていって、向こうは同化されてくる。
そういう人間に、一人一人がなることが大事だと思うのです。そのためには、たゆみなく、”消えてゆく姿で世界平和の祈り”をする。
消えてゆく姿というのは、反省のことです。これはいけないな、と反省して、それを世界平和の祈りの中に入れてしまう。そうして日常茶飯事をつづけていれば、いつの間にか、自分で何とも思わないうちに、知らない間に、自分の魂は立派になっているし、自分の行いは立派になってゆくのです。
消えてゆく姿で世界平和の祈りをやっていて、その行いが立派にならないとすれば、その人のやり方がどこか違っているのです。
例えば、反省がないとか、思い上がってしまったとか、ということであって、常に、謙虚な気持ちで、どんな時にも、消えてゆく姿で世界平和の祈りをやってゆかなければいけません。
最後の審判といっても、何も恐れることはありません。消えてゆく姿で世界平和の祈りをつづけていれば、その人にとっては恐れることは何もない。その周囲の人にとっても、恐れることは何もないんです。そういう人が多くなればなるほど、この地球人類は怪我少なく、損害が少なく、新しい波動に合わせて、新しい世界を創ってゆける。地球人類の天国を創ってゆけるわけなんですよ。
五井昌久著『天の心かく在り―日本の進むべき道 (聖ケ丘講話)』より