(つづき)自由というのにも、二つあるわけです。本当に生命を自由にして、みんなが仲良く手をつなぎあって、各々の立場で自由に生きられるような生き方をしているか、または、他の自由はみんな奪っちゃって、自分たちだけの自由や権利を主張して生きてゆく生き方の二つで、後のほうは業なんですね。
みんなが自由に、生き生きと生きられるような生き方を自分がしていることは神さまのみ心でしょ。そこで、私はそのような生き方を指導しているわけです。
そのためにはどうしたらいいかといったら、親子であろうと、夫婦であろうと、兄弟であろうと、友達であろうと、そのやっていることを抑えてはだめですよ。
それは失敗してもいいと思うんです。間違ったことをしてもいいと思う。
いい悪いじゃなくて、もう仕方がない。軌道を廻っているのだから、それをいくら抑えておっても、何かの縁でそれを離すと、濁流を抑えているようなもので、かえってものすごく破壊力が大きくなってしまうわけです。それではだめだ。
どうしたらいいかというと、軌道をぐるぐる廻っている業というものの外に出す。外へ出すのじゃなくて、本当は本道の中へ入れてしまう。神さまのみ心の中に入れてしまえばいいわけですね。
神さまというものは何かというと、愛なんです。光なんです。自由自在性なんですね。
ですから、こちらの光を向こうに当てればいいわけですよ。(つづく)
五井昌久著『責めてはいけません-聖ヶ丘講話』より