(つづき)
精神主義者がなぜ金銭をいやしみ、物質を軽視するか
精神主義者が物質を軽視するのは、物質にまつわっている人間の欲望を軽視するあまりでありまして、物質そのものを嫌っているわけではないのですが、いつの間にか、物質そのもの、金品そのものを人間の欲望そのものとみるようになってしまったのです。
精神主義者たちが、物質そのものは神から来たもの、人間の欲望は、神の光を蔽(おお)おうとする黒雲の消えてゆく姿なのだ、とはっきり分けて考えることが出来れさえすれば、物質や金銭から遠ざかる必要はないのであります。
私共の宇宙子科学では、この間の理論をはっきり解明しているのでありまして、精神波動と物質波動との相関関係を細かく説明しているのであります。
ですから、私などのように、精神にのみ重点を置いて、金品をいやしめる想いの習慣を持っていた者も、自然に昔の習慣が修正されてきて、精神波動と物質波動との調和が、おのずと行われるような状態になってきたのであります。
精神と一口に申しますけれども、精神というものが一体どういうものであるかを、はっきり知っている人は少ないのであります。試みに字典をくってみますと、たましい、霊魂、精霊、精気、こころ、心意、物事を実行する力、気力、根本の意義というように解釈されています。
ところがこういうように解釈されるよりも、精神というと、言葉で解釈されぬ前にわかっているのです。わかっているけれど、はっきりわかっていないだけなのです。
言葉の解釈はつくが、実物がはっきりわかっていないのです。ちょうど、生命というものがわかっていながら、はっきりわかっていないのと同じようなものなのです。それをあたかもわかりきっているように、精神を論じ、精神を語るのであります。
生命のことを論ずるのも同様です。生命とは肉体のみにあるのものであって、肉体が滅すれば、生命も消えてしまうという通念、精神も肉体頭脳が死滅すれば消えてしまうという一般観念、こうした想いをもってしては、生命の本質も精神というものの深い在り方もわかりようがないのです。
精神とは霊魂であり、精霊であり、根本の意義であるという、字典の解釈としてはわかるが、実際的にははっきりとわからないのであります。精神は心だというのでも、やはりわかりながらわからないのです。(つづく)
五井昌久著『光明をつかむ』より