人間の神性だけ、神の完全性だけを全肯定するためには、どうしてもその反対である業想念的行為を全否定しなければ、その思想には一貫したものが無くなります。
しかしながら、どう否定しようとしても、この世の悪や不幸や苦しみは否定しきれません。
ここのところが、この世の宗教の盲点となるところであり、実在の世界そのままを、現象界に映し出すことの出来難い所以(ゆえん)なのであります。それはその筈なのです。
神性の人間を肯定するのに、肉体の想いで肯定しようとするからとても無理なのです。
肉体の人間の想いには、やはり業生の世界の様相しかうつりません。そこで私は、”消えてゆく姿”という言葉を使って、一度肉体人間そのものさえも、全否定しきっているのです。
しかしそれを大げさに、”肉体無し”などとは説かずに、只何気ない言葉として消えてゆく姿を使い、あらゆる肉体世界の想念や出来事を、その消えてゆく姿という想いに乗せて、神の世界、神のみ心である、大光明の中、完全性の中に融合させてしまう方法をとったのです。
そして、この消えてゆく姿の想いを更に世界平和の祈りという、全人類等しく念願する祈り言に託して、神の大光明の中にすべての業想念を消し去る、という方法を取っているわけです。
こうしてゆきますと、観念的に肉体無しとか悪や病気や不幸無しとか、空だとかいわないで、自然に業生の世界、業想念の世界の波動を光明波動に切り代えてゆくことができて、いつの間にか光明一元の世界に住みついてゆくことになるのです。
光明思想に徹するためには、どうしても”消えてゆく姿”という思想がなければならないのです。
消えてゆく姿という言葉があってはじめて、無しとか、空とかいう実感が出てくるわけで、突然に無しとか空とかで、光明思想に徹するには、よほど素質のよい上根の人でなければできないのであります。私は大体において、一般大衆が入れる本心開発の道ということに重点を置いて道を説いているので、宗教学的に説こうとは思っておりませんが、この消えてゆく姿で世界平和の祈りの道を説いていますと、いつの間にか、神学や仏教学の真髄を説いていることになっていまして、相当に神学や仏教学をやってきた人々が、活眼してゆくのであります。
五井昌久著『霊的存在としての人間』より