(前略)神が地球世界を生みなし、自己の分け命を肉体人間として、この地球界に生活させることにしたのは、神のみ心をこの地球界において表現されるためなのであって、その主人公を肉体人間と定められたことによるのである。
だから、あくまで肉体人間がこの地球界の運命の主役なのである。
その主役の重要性を自ら捨てて、神にその責任の転嫁をはかるようなことでは、神のほうではそんな人間をこの地球界の主人公にしておけないことになる。
といって、その生命や智恵能力をたゆみなく送り込んでいて下さる親様である神の存在を無視して、あたかも自らが生命をつくり、智恵能力をつくり出したかのように、大生命である神の恩恵になんらの感謝もせず、振り向こうともせずに自分勝手な生活を送ろうとする人間は、これも神のみ心をこの地球界に現わし得る人間ではないので、この生き方も長続きはしないものなのである。
この二つの生き方は共に、宇宙法則を外れた生き方なので、やがては消え去ってしまう生き方なのである。
神は大生命であり、人間はあくまで神の分け命であり、神の子である。
天なる父のみ心を子なる人間がこの地球世界で果たしてゆくべき使命をもっているのである。
であるから、常に天なる、つまり人間のうちなる神のみ心に自らの想いを合わせて、この地球界の進化の道を進んでゆくべきなのである。
そういう姿が祈りの姿なのであり、こういう神我一体の人類になさしめるために働きつづけているのが守護神、守護霊なのであることを、よくよく知っておかねばならぬのである。
五井昌久著『神への郷愁』より