(つづき)その場その時の人間の想いを、慰めるための光明思想であってはなりません。無理をして想いをねじ曲げようとしても、人間には習慣性というものがあるので、習慣性が直りきるまでには、どんな善いと思うことにでも、心から飛びついてゆくことは出来ないのです。
順次に、自然に、人間の心が光明化するように、導いてゆくのが真実の光明思想家であって、焦って、偽善者を多くつくってはならないのです。
そのためにこそ、はじめは上の空でもよいから、世界平和の祈りを唱えさせるようにすることが大事なのです。
世界平和の祈りを唱えていれば、自然とそれが習い性となって、絶え間なく光明波動が心身に入ってきて、知らぬうちに、心の底から、世界人類の平和を願う、世界平和の祈りになってくるものなのであります。
そのためには、やはり普通一般の人々と同じように、悪いものごとは悪いものごととして認め、嫌なことは嫌なこととして認めつつ、しかし普通の人のように、それを心につかまえているのではなく、すべて消えてゆく姿として、人類愛の祈りであり、宇宙大神のみ心でもある、世界平和の祈りの中に、すべての想念行為を投入して、神の大光明の中で、常に自己の心を洗い浄めていただきつつ、日々の生活をするのであります。
こういたしますと、無理なく自然に、業波動と光明波動の転換が出来て、無理無理に、病気無し、病気無しと思おうとしてみたり、悪や不幸はないのだ、光明燦然、光明燦然と、思ってみたりしなくとも、自然な心の姿で、人間が光明体の本質に還元してゆくのであります。
無理があると永続きしませんし、かえって不正直な人間になってしまったり、心の底で人を嫌がったり、さげすんだりする陰性な人になってしまったりするものです。(中略)
悪も不幸も、普通の人と同じように認めることが出来るということは、光明思想の新しい行き方でありまして、悪いものは見るな、悪い言葉は聞くな式の、狭い光明思想では、やがて行き詰まってきてしまいます。
当たり前の生活を当たり前にして、しかも悪にも不幸にも病気にも少しも把われず、世界平和の祈り一念で生きられることの幸福は、やりつづけてきた人でなくてはわからない境地ですが、誰でも、短期間でこの道の法悦境はそれとなくわかってくるのです。
わかりやすくいえば、闇の思想をやさしく、自然に、光明思想に変えてしまう生き方が、消えてゆく姿で世界平和の祈りの生活なのであります。(後略)
五井昌久著『宗教と平和宗教と平和』より