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”想念”と”いのち”を切り離して観よう

(前略)祈りというのは、
自分の本心が発現すること、
自分に与えられた”いのち”が、
そのまま礙りなく
現われてゆくことなのです。

祈りの姿が
そのままに現われるためには
どうするかというと、
自分の頭の中で
グルグル廻っている業想念、
あれが欲しい、
こいつが憎らしい、
妬ましい、
地震が怖い、
大事が怖い、
貧乏が怖い、
病気が恐ろしい……、
そういう恐怖とか不安とか、
怒りとか、様々な欲望、
自分を守りたいという
欲望にとらわれず、
消えてゆく姿にして
祈りにかえることです。

自己保存の本能という、
とっさに自分を守りたい
という本能が人間にはあります。

なくてはならない本能なのだけれど、
あまり過度になっています。

過ぎますと、
自分を害するもの、
自分に損を与えるもの、
利害関係に反するものが、
みんな敵に見えてきます。

ですから、
常に不安をもっている。
不安な気持ちというものは、
いのちを損ねるものなのです。(中略)

心配とか、不安、恐怖とか、
妬み、怒りとかいうものが、
中で働いているいのちの働きを
阻害しているわけです。

いのちの活動が
素直になされている時には、
肉体が完全です。

運命も完全なのです。
想いが礙りになって、
働きを邪魔してしまうわけです。

そういう想いから抜け出せばいい。
”想い”と”いのち”そのものと離せばいい。

いのちのままが現われていることを、
本心が現われているという。

その本心の大きなところが
神さまというわけです。

宇宙神の大生命から
分かれてきた小生命が、
私どもです。

だから、
小生命の与えられた
”いのち”そのまま出せば、
みんな幸福になるし、
人を損なわないで、
みな完全になるわけです。(中略)

本当の祈りというのは、
業想念、争いの波、恐怖の波、
自分を守ろうとする波、
敵を見る波、
そういう波を消してしまうわけです。(後略)

五井昌久著『高級霊(ハイスピリツト)は上機嫌』より