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祈りの姿

神という言葉を使わなくても、
仏という言葉を使わなくても、
生命をそのまま、
業想念、つまり我欲、
迷いにわずらわされないで、
生き生きと生きていけば、
それは祈りの姿なのです。

例えば
山野に木が茂っています。
草が生えています。

木というものは、そのまま
何ものにもわずらわされないで、
スクスクと延びています。

天まで届くかと思われる杉など
たくさんあります。

そういうのは、
生命がそのまま生きている姿、
祈りの姿なのです。

草花が野原に咲いている。
道端に咲いている。
人間が行って、
肥料をやるわけではありません。

自然そのままに、
素晴らしい花が咲くわけです。

誰も踏み込んだことのない
アマゾン流域に、
素晴らしい花が咲いている。

花壇にあるような花ではない、
もっともっと素晴らしい
花が咲いています。
この間、テレビで映していました。

与えられたいのちが、
そのまま美しく
自分の天命を完うしているわけです。

そういうのを、
祈りの姿というのです。

何かお願いすることを
”祈り”と思ったら、
それは間違いです。

お願いは念力です。

ひどいのがあります。
神さまに願をかけて、
何か助けたまえと祈る。
それを祈りだと思って願うのですが、
その願いが叶わないと、
あの神はニセ神だと文句を言う、
神さまにケチをつける者がいます。

それは自分勝手であって、
神さまの知ったことではないのです。

祈りというのは、
自分の本心が発現すること、
自分に与えられた”いのち”が、
そのまま礙りなく
現われてゆくことなのです。

”祈りの姿”がそのままに
現われるためには
どうするかというと、
自分の頭の中で
グルグルと廻っている業想念、
あれが欲しい、
こいつが憎らしい、
妬ましい、
地震が怖い、
大事が怖い、
貧乏が怖い、
病気が恐ろしい……、
そういう恐怖とか
不安とか
妬みとか、
様々な欲望、
自分を守りたいという
欲望に把われず、
消えてゆく姿にして
祈りに切り替えることです。(後略)

五井昌久著『高級霊(ハイスピリツト)は上機嫌』より