(前略)
個人個人光なんだから、
光の波に乗って
いつも歩いていればいい。ああ、我は光なり
と想ったっていい。ああ、自分が歩いている時は
神さまの光が流れているんだなあ
と想ったっていい。ああ、ありがたいな、
神さまありがとうございます、
世界人類が平和でありますようにと、
自然に世界平和の祈りが
出てくるように、
自分が光になっていなければ
ダメなんです。もうなんにも思うことはない、
そんなこというけど先生は、
と思う必要はない。そう思ったら、
それは業の消えてゆく姿。神さまの子である、
自分が光の子である、
ということを否定する想いが出たら、
それはみな消えてゆく姿。世界平和なんて
祈ったってしょうがない
と思ったら、それも消えてゆく姿。さっきある女学生が来て、
「世界……というと
なんだかおかしくなっちゃう、
だから世界平和って言えない」
と言うんです。「それじゃ五井先生って呼べる?」
と聞いたら、
「五井先生は呼べる」って言うの。「じゃあ”五井先生!”って呼びなさい、
同じだから」と教えたんだけれど、
どっちだってかまやしない。世界平和の祈りというのは
私がやっているんだからね。私というのは
肉体のことを言うんじゃないですよ。
肉体ではなくて光体、
光の体が
世界平和をやっているんです。それが肉体の五井昌久という
器を通って流れてゆくんです。ところが
光体の五井先生と言ったって、
普通の人は見えやしませんね。霊眼の人には見えます。
霊光写真がありますね。
光が私なんであって、
それを写したから
光の写真が出来たんです。写真よりこのほうが
(ご自分をさして)
余計に本物なんです。けれど本物より、
写真のほうが効き目がある
と思っている人があるんじゃないかな、
どこかに(笑)。こうやって拍手を打つと、
光そのものが出ているんだからね。光の写真よりも
このほうが効果があるんです。
つい間違いますよ。普通の人には
肉体に見えるけれど、
肉体じゃないんです。光そのものなんです。
ただ光から言葉が出てきちゃ
おかしいでしょ。なんだかテレビジョンを
見ているようで変だから、
やっぱり肉体というものがある。
(後略)
五井昌久著『不動の心-五井昌久講話集5』より