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真理の光に照らされた生活②

(つづき)人に立てられる地位に昇った時ほど、人間はいっそう気をつけなければならぬのでして、謙虚に謙虚に自己反省して、人々に接しなければならぬものなのです。

自己の地位や立場を背景にして、上から人を見下して、優越的な言辞をろうしている人々の心は、神の目からみれば、哀れな幼い魂としかうつらないものなので、実にこっけいなものであります。

私たちの団体には、そういう人は割り方少ないのですが、それでも、霊能的になって人の心や運命の方向がわかるようになったりすると、まるで神そのものにでもなったようなつもりで、高圧的なものの言い方をしたり、そりかえった態度で、自信満々に教えを説いたり、宇宙の万般、月の裏まで見通しているような大きなことを言って、てんとして恥じないような愚かな人も時にはあるのです。

神の名を汚すもの、生かすものこういう人は、虚栄心の強い人なので、その虚栄心に幽界の生物が働きかけて、俗物以下の言動をさせてしまうのです。

ですから、人間はいかなる時でも、謙虚で反省力が強いことが必要なのです。そこに私どもの消えてゆく姿という、反省から空の境地に入ってゆく段階が必要なのです。

消えてゆく姿で世界平和の祈りという、反省して把らわれを放つ、放ったところが大光明波動の中である、世界平和の祈りの世界であるわけです。

政界や実業界のような、正直でまともな人ではとてもやってゆけないような、そういう世界と違って、宗教の世界というものは、神のみ心そのままの、明るい正直で柔和で素直が一番通用する世界なのですから、そういう世界にまで来て、虚栄心や権力欲を振りまわしたりする必要は毛頭ないのですから、どこの宗団の人々もそのつもりになって、お互いがお互いの心を澄み切った清らかで平和な心にしてゆくよう、努める必要があるわけです。(つづく)

五井昌久著『光明をつかむ』より