(前略)「肉体の症状に現われたり、想いに出たりした時には、もうそれは病気が治っている時であり、業想念が消えてしまった時なのです。
それを間違えて、雑念が出て来たり、業想念が出ていると、”自分はダメだな”と思うけれどそうじゃない。
もう消えてしまって、本心はその時光り輝いているのですよ。」
「ということは先生、現われてきたことに心が動くか動かないかに差がある、ということでしょうか?」
「そういう問題とは違うね。
人間には肉体の他に大別すると、神体、霊体、幽体という体がある。神体、霊体は光り輝いているけれど、幽体にたまっている汚れが、肉体界に完全なる現われの出るのを邪魔しているわけ。
この幽体の汚れがあっても、肉体界に今現われていない場合がある。そういう時は、肉体界のほうはなんでもなく感ずる。スッキリしているような気がしているわけですネ。
一方、肉体は苦しみ悩んでいるけれど、幽体の中に汚れが何もない場合もある。幽体にはなくなったけれど、肉体の頭の中には、想いとして残っているのです、そうすると、”自分はダメだな”と思う。ところが、幽体にはもうその根はないのだから、後続部隊がないのだから、消えてしまっている、もうすでに過去のことですんでしまったこと、悪くなりようがない、というわけですよ。
それを私はアッサリと現われてきたものはすべて消えてゆく姿、これからよくなるのだ、と説いているのです。」
五井昌久著『続・如是我聞―五井先生の言葉