(つづき)
私は前から考えていた。病気などを、世界人類を救うという私が、いろいろ何日も何日もかかって治してもしょうがない。そんなことをやってなんになるかと思った。そういうことをいつまでも私にさせていないで、何か変わることがあると思っていた。
そしてこの間は、ある娘の魂の入れ替えなんていうのがありまして、そのときにはものすごい力が働きました。ところが今度はイエスがそのまま入ってきたら、光がその時以上に強くなって、指導の時など、全然拍手を打てないのです。村田さんなどは、手をかざすだけで、「おー、熱いですな、熱いですな、今日のは」(笑)そのくらいな光なんです。
霊気というのは面白いもので、熱い光とスーッと心の奥までしみ通って静かになる光と、その人によって、いろいろと感じ方が違うんですね。とにかく光がものすごい。手をスーッと動かしただけで、パーッと熱くなるような光なんですよ。だから昨日は三百何十人来ていますから、一人一人出来ません。四、五人並んでお浄めするのです。その波動をみんなが各人感じるんですよ。力が全然違ってきた。
その次の悦子さんの予言には、とにかくみんな手をスーッと動かすだけで、盲人は目を開き、いざりは立ち、病者はたちどころに癒される、ということになっているんです。それでまずその片鱗を見せておいた。見せておかないと、宇宙人との交流にいろんな練習がありますから、そのときに困るんですね。
そこで今度は本部道場の三時のお祈りの時、二階の編集室で霊気がまたサーッと来たんです。みなガタブルなんです。それで始まったのだけれども、編集室じゃ汚れてるんですね。やっぱり人が入ってきて、いろんな想いがあるから駄目なんです。(中略)
そこで交流をしましたが、後でうんと苦しんだのですよ。それはなぜかというと、そこの部屋にはなんていいますか、人間の想いがいっぱいあるわけです。いろんな人が行きますからね。すると「これは駄目だ」というわけです。「この部屋にあるもの全部片付けろ、即刻やれ」というんです。やらないと二人がうんと苦しむでしょ。
それはもう峻厳そのもの。一片の個人的な情などというのも問題にしないんです。甘ったれた想いなど、一片にすっ飛ばされちゃう。これには肉体の五井先生も、どうしようもないのです。
それはそうでしょ。大神様の命令で全部が結集して来ているんですよ。宇宙人が結集してる、守護の神霊がみんな結集している。だから甘やかしたのは今までのこと。
これからは甘くないよと言うんです。やだね、私は甘やかしたくてしょうがない。ところが、「甘やかしちゃいかん」と言うんです。
「そんなことでは世界が亡びちゃう。お前たちも亡びちゃう。世界が亡びお前たちが亡びるのがいいか、甘えるのがいいか」と来るんですよ。
(つづく)
五井昌久著『魂が大きく開く時 (聖ヶ丘講話)』より