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不幸を契機に運命を開く⑧

(つづき)

肉体の先生(※五井先生)というのは、思わせる一つの場所なんです。皆さんに救いの光が伝わってゆくハシゴ段みたいなものです。あるいはエレベーターボーイだな(笑)。「ハイ、お次の方」といって乗せてゆくんですよ。

私が舵を取ってるんですから、みんなを乗せて神さまの中に入ってゆく。向こうには光の浴場があるから、そこで洗ってまた降ろしてくるんです。それを毎日やってるんですよ。

こうやっている(お浄めをしている)時は、神さまの光の浴場に入れて洗ってやっているんです。三助までやらなきゃならない(笑)。エレベーターボーイから、三助から、風呂屋までやらなきゃならない(笑)。それを毎日やってるんです。楽じゃないですよ。

今日もあそこへ入って(会場のすみの小さい部屋。お浄めと個人相談をする場所)、ここは涼しそうですけれど、あそこは暑いんです。暑くて暑くて、なんだか頭がこげそうです。こっちは風が自由に入るけれど、あそこは風通しが悪い。

あそこに座ってやっていると難行苦行なのだけれども、これも前世の因縁(笑)とあきらめて、そうでもないけど(笑)、あそこに座りっぱなしなんです。あれを真似して一日やってごらんなさい。たいがいのびちゃうから。だけど私はのびないです。

なぜのびないかというと、”我”がないからです。あるのは愛だけなんです。人を救いたくて救いたくてしょうがないんです。みんなを苦しめたくなくてしょうがないんです。子供の頃からそうだけど、みんながよくなるようにと、そればかりが私の頭の中にあるんです。

ですから観念論的に、ただ教えだけ説いていればいい、という気がしないんです。教えだけ説いてすましていればいいような気がどうしてもしない。実際、自分がぶつかって、一対一でもってその人を救わないと、とても気持ちが悪い。教えを聞いただけではわからないという人に、お前の信仰が足りないんだ、お前がわからないのはお前の罪だ、なんて言う気にはならない。

(つづく)

五井昌久著『自由解脱への道―聖ケ丘講話』より