(前略)
肉体の人間というのは、みんな等しいんです。肉体の人間に差別があるわけは絶対にない。天は人の上に人をつくらずというのは、肉体の人間のことを言うのです。肉体の人間はすべて同じです。
ただ肉体の人間がどれだけ空っぽになっているか、どれだけ私がないかということによって、その位が違うのです。だから威張った教祖は、無私ではありません。自我欲望がある。
コンマ以下の人間が、神様の使いとしてやっているような、そういう馬鹿な時代は去らなければならない。そういう時代が続いたら、日本は滅びます。実にくだらないことです。
一番悪いのは、新興宗教の教祖だ。新興宗教ばかりではない。既成宗教も同じで、大本山の大僧正なんてなんていうと、普通の人間を下目に見ている。下目に見れば見るほど、その人は偉くないのです。ちっとも偉くない。人間は全部平等です。
威張りくさっていると、また偉いような気がするんです。不思議なものでね。人間は凡愚だから……。きれいな着物を着て、お付きがダーッとついていると、なんだか輝くような気がするけれども、なんにも輝いていない。業が取りまいているだけです。そういうのが偉いような気がしたら、偉いような気がする方もやっぱり馬鹿だ。
一番偉い人はちっとも威張らないで、仕事は人一倍して、犠牲という言葉は嫌だけれど、みんなの犠牲になって、みんなのためになって、それで平々凡々としている人です。
私の所に今では相当多くの人が来る。一日に三百人も人に会って、教祖がいちいちお浄めしているところなんてありゃしませんよ。みんな誰かにやらせて、自分は御簾の奥におさまっていますよ。キャデラックかなんか乗って、スッと出かけて、綺麗な女の子を両脇にはべらせている。実にくだらない。
私は自動車に乗るのも嫌いです。なぜ嫌いかというと、自分だけ先にサッサと自動車で帰ってもいいけれど、せっかく一緒に帰ろうと待っている人もあるわけでしょう。子どもたちもいますよ。自分だけ帰るのは、いい気持ちがしません。だから私は乗らない。私には人の心が写るからね。
人に会うと「いらっしゃい、いらっしゃい、サァいらっしゃい」って言うでしょう。「あれよせ」と言う人があるんです。「先生、そんなに軽々しくチョコチョコ言わないで、もっとおうように構えて、咳払いなんかして、向こうが恐る恐る顔を上げる時に、人をもっと向こうに離しておいて、「ああなんじゃ、言いたいことを申せ」(笑)ってね。バカバカしくてそういう気がしないんです。同じ人間なんだから。
同じ人間という立場でなければ、人を指導することは出来ません。向こうの悲しみがわからないもの。向こうが何を求めているんだかわかりませんよ、高みに居たら……。本当に霊位が高くて高みに居るならいいけど、前生の徳が返ってきて、教祖なら教祖の地位にいるんですからね。
今偉いんじゃない。今偉い人はさっき言ったように、人間のためになりながら、みんなの苦しみを背負いながら、自分が威張らないで、みんなと同等にいる人ですよ。そうすると、自分のことを言っているようだけど、正直に言うと本当なんだから。私は自分が教えていることを、自分で実行しているんですよ。
(後略)
五井昌久著『講話集〈1〉神様にまかせきる (講話集 1)』より