(前略)
『道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。無名は天地の始なり。有名は万物の母なり。故に常無以って其の妙を観んと欲し、常有以って其の徼(きょう)を観んと欲す。この両者は、同出にして名を異(こと)にす。同じく之を玄(げん)と謂(い)う。玄の又玄は、衆妙の門なり。』(中略)
道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。という言葉は有名な言葉でありまして、誰の言葉かは知らないが、そういう言葉があったと、記憶している人も多いことでしょう。
これはどういう言葉かと申しますと、老子の根本義である、自由自在性、無礙自在の生き方、在り方を、端的に現わした言葉なのです。
生命というものは本来、自由自在に生き生きと活動できるものであって、一つの道というものがつけば、その道以外には活動できなくなってしまう。
また、何の誰々という名がつき、何々会という会名がつけば、その名の範囲に縛られてしまって、本来の生命の自由自在性が出せなくなってしまいます。
人間の本質は生命そのものであって、自由無礙に何事でもなし得るように出来ているのでありますが、一つの道という定まったものをつかんでしまうと、その道がどのように立派なものであっても、その道に心が把われてしまい、本来の自由自在性が縛られてしまいます。
(つづく)
五井昌久著『老子講義』より