(前略)
想ったところが自分なのです。
だから無為にしてなせば、奥の奥のどこまでも行くわけです。
それをたいがい自分というと、一人いるような気がするのですよね、ここに……。
自分というのは一人だなんて、とんでもない話です。
一人ではなくて、神々、あらゆる光が総合して生きているのです。
だから私は、たいがいお話しているとき、”私たち”と言っているでしょう。
”私”というのはあまり使わない。
体からいえば”私”だけれども、働きとしてはすべて、”私たち”なのですね。
”私”などという個人はないのです。
個人があるという人は、まだ悟っていない。
(後略)
五井昌久著『白光誌1964年2月号』より