(前略)
私どもが毎日使っております、この言葉というものの中には、想念波動のひびきも、実在の世界の言(光)のひびきも混じっているわけなのですが、得てして人々は、汚れた業想念波動の言葉を使いたがります。
せっかく神様が、光り輝く平和な実在界を言のひびきをもってつくって下さっているのですから、私ども人間は、日々使っている言葉や想念波動を通して、実在界の言の中に昇華してゆく必要があるのです。
「あの馬鹿野郎」という言葉を、「あの人の天命が完うされますように」と変えてゆき、「この世に平和などとても来ない、地球はもう駄目なのだ」という想念波動を、「悪いものごとはみんな、過去世の神のみ心を離れていた誤った想念行為が消えてゆくために起こっていることなのだ、消えてゆくに従って必ず地球世界になってゆくのだ」というような明るい想念になって、世界平和の祈りの中にもってゆくというように、実在界の光明につながってゆく生き方をしてゆくことが大事なのです。
《実在世界に言葉や想念の元になる光明そのものである言がある》ということは有り難いことで、善い言葉や善い想念をたどってゆけば、実在世界の神のみ元にたどり着けるということであります。
祈り言葉というのは、実に神の世界につながる善い言葉なのであります。
想念波動の世界では、悪い想いや不幸な想念が起こったら、「それはみんな過去世から蓄積されていた想念行為の波動が、今現れて消えてゆく姿なのだ」と、悪や不安の想念のままでよいから、今度は口に出す言葉の世界の祈り言葉で神様のみ心の中に飛び込んでゆく、私流にいえば、現れてきた悪いことを消えてゆく姿にして、「世界人類が平和でありますように」と祈り、悪も不安もひっくるめて、神様のみ心の中に飛び込んでいってしまうのです。
そういう祈りを重ねてゆきますと、いつの間にか、心配苦労はどこへやら飛び去り、明るい勇気のある人間がそこに生まれ変わってくるのであります。
(後略)
五井昌久著『霊的存在としての人間』より