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それぞれの道を生かす祈りの生き方(前半)

祈りの生活だけしていると、自分自身の向上心や競争心が失われていって、弱々しい消極的な人間になってしまいはしないか、という疑問を出してくる人がいます。祈りというと、どうも今までの習慣性で、神仏への願いごとで、消極的な事のように思われがちですが、実は祈りほどしっかりした強い生き方はないのです。

何故かといいますと、祈り心によって、肉体人間の生き方は、神のみ心と一つになってゆくので、神のみ心の大智慧、大能力をその身心に現わしてゆくことになるのでこれ以上強いたくましい生き方はないし、これ以上愛深い生き方もないのです。

そうおっしゃるが、スポーツの場合でも、商売の営業の場合でも、身心共なる精進努力と、積極性が必要なのに、祈り心のようにふんわりしていては、積極性が出てこないのではないか、という疑問をまた投げかけてきます。

祈りというと、形の手を合わせ、形の上での静かさをみて、そういう向きが多いのですが、祈りというのはいのちを生き生きさせるということで、祈り心になると、その身心は静かに穏やかに見えてもいても、瞬間瞬間に発する力は、常人をはるかに超えた素晴しいものになるので、それはスポーツの場合でも、営業や交渉事の場合でも同じに働くのであります。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏といいながら商売もできないでしょうし、のりとを上げながら野球のバットも振れないでしょう。私の言うのはそういうことではなく、常に心の中に世界平和の祈りがあり、守護の神霊への感謝がある、ということで、学問なり仕事なりについている時は、そのこと、そのものに真剣に心を打ち込んでやることは、常識人と何ら変わることはないのです。(つづく)

五井昌久著『真の幸福』より