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言葉・想念・行為に真実の愛を顕すために(前半)

普通、愛と簡単にいわれているものは、ほとんどが業想念(因縁)と業想念との融合によって行なわれるか、業想念の自我欲望の満足を、愛と想い違えているかであるのです。

つまり、執着、執愛、自分の生命(いのち)を縛り、他の生命を自我欲望のために縛りつけてしまっているのであります。

恋愛や、親子の愛の場合には、こうした執愛が非常に多いのです。しかもそれをわからずに行なっているものが多く、わかっても、業想念の波に巻きこまれて、どうにもならずにいるものが多いのです。

常に私の説いているように、本心と業想念の区別をはっきりとつける訓練をしていないと、真愛と執愛の区別がつき難いし、消えてゆく姿という真理を知らないと、これは執愛だと思いながらも、その執愛の想念の波から逃れることが出来ないのであります。

生命(本心)の自由なる動きと、業因縁、業想念の波動とを、一つにして(一つに考えて)行動している以上は、真愛をこの世において行ずることはむずかしいと思われます。

生命(本心)とは、神界から霊界幽界を通って、肉体界に来ているものであり、業想念とは、本源を神界に置く生命が、霊幽肉と、次第に重い粗雑な体(ボディ)をつけて、その本来の自由性を発揮出来得なくなった、その間隙(かんげき)に生じた波動なのであって、本源を神の世界に置くものではないのであります。

神は自由自在心であり、完全円満なるものであるので、神から分かれた生命(心)も、本来は自由自在なのでありますが、一たびその生命が幽体をつけ、肉体界に入ると、幽界肉体界の業想念の波動に蔽(おお)われて、その本来の自由自在性、完全性を発揮できなくなり、神(大生命)との交流、分生命(他の人間)との融合が出来難くなって、今日の如く、愛にそむく行為や、自我に執着する誤てる恋愛や、親子愛や国家愛が起こってきたのであります。(つづく)

五井昌久著『愛・平和・祈り』より