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芸術精神と宗教精神④

(つづき)いかに現象世界にあって、明日食べる米がなくとも、生きる時は生きるのです。生命ある限りは、米は必ず与えられます。これが原則です。ですから明日の米のことを思い煩う必要は、本当はないのです。

出来る限り今日の人事を尽くして、そしてよい音楽を聴き、よい絵画を見る余裕のある心を持つことです。

そんなことは出来ない、生きるために、食うために、そんな暇などない、という人は、明日の米があってもよい音楽を聴こうとはしないでしょう。自分の肉体を生かすことに追い回されてしまうのです。

人間は最後の一分間まで、高い理念で生き、心を神の座にすえておきたいものです。儲かった、損したと、金銭のソロバン勘定に一喜一憂しているだけでは、その人の人生は一体何になるでしょう。淋しい、生命の枯れたつまらないものになってしまうのではないでしょうか。

ある人はこんな歌を作っています。
美しきものにひかるる眼をもちてわが淋しさのはつることなし
こんな美しいものにひかれ、こんなに美を求めているのに、私の心から、いつまでも淋しさは消えない、という意味なのですが、それはまだ真実の美を知らないから淋しいのです。

それなら美を求めるのではなく一段上に昇って、美を創ってゆくことです。日常の生活の中に、美しいものを創造して、美しいものを溢れさせることです。

自分自身の内面生活を、常に神の座に上げておくことです。眼にふれるすべてから、神のいのちを感じるような修練をしてゆくことです。

そうすれば、いつかは何を見ても美しいと思うようになってきます。枯れ木の中にも美はあるし、地をはう根にも美はあります。自然から与えられた場所で、そのままの生命を素直に生かし切ったものには美があるのです。

人間も天命をそのまま素直に喜んで生きてゆかれるようになれば、その人の生活は美しいのです。素直に自然を見、素直に人生を見てゆく人は、必ず神を見出し、美を見出します。素直な愛念を心の内に充満させ、美しさが溢れて、人に暖かい、柔らかな感じを与えてゆく者になりたいものです。(つづく)

五井昌久著『生命光り輝け-五井昌久講話集1』より